最高裁判所大法廷 昭和27年(あ)2226号 判決 1953年12月16日
主文
原判決及び第一審判決を破棄する。
被告人を免訴する。
理由
弁護人上田誠吉の上告趣意及び被告人の上告趣意は末尾添附のとおりである。
裁判官真野毅、同小谷勝重、同島保、同藤田八郎、同谷村唯一郎、同入江俊郎及び裁判官井上登、同栗山茂、同河村又介、同小林俊三の意見は、本件は原判決後に刑が廃止されたときにあたるとするにあるから、刑訴四一一条五号、四一三条但書、三三七条二号により主文のとおり判決する。
裁判官田中耕太郎、同霜山精一、同斎藤悠輔、同本村善太郎は上告棄却の意見である。
裁判官真野毅、同小谷勝重、同島保、同藤田八郎、同谷村唯一郎、同入江俊郎の意見は次のとおりである。
弁護人上田誠吉の上告趣意第一、二点について。
昭和二五年政令三二五号「占領目的阻害行為処罰令」は、わが国の統治権が連合国の管理下にあった当時は、日本国憲法にかかわりなく憲法外において法的効力を有したのであるが、平和条約発効と共に当然失効し、昭和二七年法律八一号により前記政令の効力を維持することは憲法に違反し、同年法律一三七号の規定は、事後立法であって、違憲無効であり、また本件のごとき場合に限時法理論を用いることが憲法上許されないことは、昭和二七年(あ)第二八六八号同二八年七月二二日言渡大法廷判決記載の真野、小谷、島、藤田、谷村、入江、六裁判官の意見のとおりである。それ故に、本件については犯罪後の法令により刑が廃止された場合にあたるものとして被告人に対し免訴の言渡をするのを相当とするから、論旨は結局理由があり、本件はその余の上告趣意に対する判断をまたずこの点おいて原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものと認める。
裁判官井上登、同栗山茂、同河村又介、同小林俊三の意見は次のとおりである。
弁護人上田誠吉の上告趣意第一、二点及び第四点について。
昭和二五年政令三二五号は、前記日本国との平和条約が発効するまでは日本国憲法にかかわりなく憲法外において全面的に有効であったが、右平和条約の発効後は、本件に適用されている昭和二五年六月二六日附及び同年七月一八日附連合国最高司令官の指令はその内容が憲法二一条に違反するから、右政令第三二五号は前記指令を適用するかぎりにおいて右平和条約発効と共に失効したものである。従って本件は原判決後の法令により刑の廃止があった場合に準ずべきものであること昭和二七年(あ)第二八六八号事件の大法廷判決記載の井上、栗山、河村、小林四裁判官の意見のとおりである。故に本件は原判決を破棄しなければ著しく正義に反するから、その余の同弁護人並びに被告人の上告趣意に対する判断をするまでもなく、原判決及び第一審判決を破棄し被告人を免訴すべきである。
裁判官田中耕太郎、同霜山精一、同斎藤悠輔、同本村善太郎の上告棄却の意見は次のとおりである。
弁護人上田誠吉の上告趣意第一、二点について。
刑訴四一一条五号にいわゆる「判決があった後に刑の廃止があったこと。」とあるのは、刑訴三三七条二号にいわゆる「犯罪後の法令により刑が廃止されたとき。」と同義であって、犯罪後の法令により積極的に既成の刑罰権を特に放棄したとき、すなわち、特にこれを廃止する国家意思の発現があったときを指すものであること、並びに、単なる事情の変更又は時間の経過によって単に将来に向って失効するに過ぎないいわゆる限時法的性格の法令は、その立法と同時にその法令失効後もなお失効前の違反行為に対し罰則を適用する旨の明文を予め設けてあると否とを問わず、犯罪後の法令により特に刑を廃止する旨の明文がない限り既成の刑罰を廃止しないものであることは、昭和二七年(あ)二八六八号同二八年七月二二日宣告当裁判所大法廷判決中の同弁護人の上告趣意第三点についてのわれわれの判断において説明したとおりである。そして、本件昭和二五年政令三二五号占領目的阻害行為処罰令は、占領中のみに限り有効に存在する限時法的性格の法令であって、本件犯罪後これが刑罰を廃止したと認むべき法令に因る特別の国家意思の発現もなく(本件指令の趣旨に反する同令違反につき大赦がなかったことは、その一端を示している。)むしろ、昭和二七年法律八一号、同法律一三七号の一連の法律は、(法律八一号が新らたな国内法律として有効であるか否かは別として)、却ってその刑罰を廃止しない旨の明確な国家意思を表明していると見るべきこと、かかる立法は、刑法六条又は刑訴三三七条二号のような刑法又は刑訴法の規定を適用しない旨の立法であって、一旦失効した刑罰法規を失効後再び有効な法規としてこれを復活させるものでないから、憲法三九条の禁止するところでないこと、及び、本件のように平和条約発効前たる昭和二五年一二月末頃から同二六年一月末頃までの間に右政令三二五号に違反したとの問題は、平和条約発効後である昭和二七年四月二八日以降同年五月七日までの間における法律八一号の違反行為ありや否やの問題ではないから、同法律が憲法に違反するか否かを論ずる必要のないこともすべて前記判決においてわれわれが説明したとおりである。されば、いずれの点からしても、本件については犯罪後の法令に因り刑の廃止はないのであるから、所論は、刑訴四一一条五号の職権発動事由としても採用し難い。
同第三点、第四点について。
連合国最高司令官は、降伏条項を実施するためには、日本国憲法にかかわりなく法律上全く自由に自ら適当と認める措置をとり、日本の官庁職員及び日本国民に対し指令を発してこれを遵守せしめることを得るものであることは当裁判所大法廷の判例の示すところである。(昭和二四年(れ)六八五号同二八年四月八日宣告大法廷判決弁護人森長英三郎の上告趣意第二点についての判断参照)。されば、所論昭和二五年六月二六日附及び同年七月一八日附指令が憲法一九条又は同二一条に違反するとの主張並びにこれを前提とする同三一条違反の主張は、採用することができない。なお、平和条約が発効したからといって、前記指令が憲法に反するか否かを判断するの要ないことは論旨第一、二点についての説明において述べたとおりである。
同第五点乃至第九点について。
昭和二五年六月二六日附及び同年七月一八日附の連合国最高司令官の指令には、発効停止される出版物として「アカハタ及びその後継紙並に同類紙」と明らかに指定されているばかりでなく、原判決は、証拠に基き「平和のこえ」がその論説、記事、主義主張等の内容自体によりアカハタの後継紙たるの要件を備え且つ最高司令官の委任を受けた法務総裁から「アカハタ」の後継紙として停刊された事実に徴し前記指令にいわゆる「アカハタ」の後継紙に該当するものと認めたのである。また、前記指令を読めば、アカハタ及びその後継紙等は、日本の政党の合法的な機関紙ではなく、日本国民の間に、特に今回は日本にいる多数の朝鮮人の間に、人心をかく乱して公共の安寧と福祉とを侵害することを目的とした、悪意のある、虚偽のせん動宣伝を広めるために用いられる国外の破壊勢力の道具であるという事実を証明しているというのであるから、同指令にいわゆる発行行為(Publication)とは、アカハタ及びその後継紙並び同類紙を一般人に宣伝、播布するためにする一切の行為を指し、その編集、印刷、発売、頒布、運搬、頒布目的の所持等をも包含すること明らかであり、従って、原判決が「頒布してその発行行為を為し、以て前記指令の趣旨に違反し、占領目的に有害な行為を為したものである」との第一審判決の判示を是認したのは正当である。されば論旨第五、第六点は、違憲をいうが、結局指令の解釈乃至原判決の認定を非難するに帰し、同第八点は事実誤認の主張に過ぎないものであり、同第七点は、違憲をいうが、原審の真意をほしいままに憶測し、独自の解釈を行ったものであって、その違憲の前提を欠くものであり、同第九点は、量刑不当の主張であって、いずれも刑訴四〇五条の上告理由に当らない。
被告人本人の上告趣意について。
「平和のこえ」が「アカハタの後継紙」であること、並びに、本件指令にいわゆる発行行為の意義については、弁護人の論旨について説明したとおりである。その余の論旨は、第一審判決が証拠に基き適法に認定した事実の誤認、単なる訴訟法違反、量刑不当の主張を出でないものであって、刑訴四〇五条の上告理由に当らない。
斎藤裁判官は、本件につき次の意見を附加する。
刑法六条は、旧刑法三条と同じく、実体刑法上犯罪行為時法を適用するのが当然であって新法を遡及適用すべきでない原則に対し犯罪者に対する恩恵上一大例外を認めたものであるから、その立法趣旨に照しこれを狭く厳格に解すべく、広く類推して拡張解釈すべきでないことはいうまでもない。(元来、わが刑事法では、後に述べるドイツ刑法二条a第一項と同じく、行為の可罰性とこれに科すべき刑罰は、判決時法によらずに、行為時法によるべき原則を採用していることは、罪刑法定主義を採っていることと刑法六条、刑訴三三七条二号等の特別の規定があることとにより明白である。若しも科刑に関し判決時法主義を採っているならば、曽って発表された「刑法改正ノ綱領」四十(犯罪終了後ニ刑ノ変更アリタルトキハ判決時法ニ依ルヘキ規定ヲ設クルコト但シ行為時法ニ於テ定メラレタル刑ノ最上限ヲ超エサルモノトスルコト)のごとき決議の必要もなく、また、刑法六条は、「改正刑法仮案」六条のように、「犯罪後法律ノ変更アリタルトキハ新法ヲ適用ス但シ旧法ニ定メタルモノヨリ重ク処断スルコトヲ得ス保安処分ニ付テハ新法ニ従フ。」のごとく規定すべきであったであろう。)刑法六条は、その法文上明らかなように、単に、「犯罪後ノ法律ニ因リ刑ノ変更アリタルトキハ其軽キモノヲ適用ス」と規定して犯罪行為時の刑が犯罪成立又は完結後の法律に因り変更されたときに限り規定したに止まり、ドイツ旧刑法二条第二項のように犯罪の時から判決言渡の時までの間いやしくも実体刑法規定の変更があったときは、犯罪者に最も寛大な結果を生ずべき一切の規定(従って、刑を規定し法規そのものが廃止された場合をも含むと解釈すべき余地があった。)を適用する趣旨の立法ではない。すなわち、刑法第六条は、犯罪者の犯罪行為が成立(即時犯)又は完結(継続犯)後判決言渡までの間において、その犯罪者の行為規範の違反に対し科すべく予定した法律効果を規定した法規(実体刑法各本条)に変更を生じたときは、罪刑法定主義の建前からすれば、当然行為当時の刑罰を科すべきであるに、立法者の犯罪者に対する量刑観念の変化に伴う最も寛大な立法意思の表現である最も軽い法律効果を規定した法規を適用すべきものとして、特に軽い刑を規定した新法の遡及効(すなわち軽い事後法の適用。)又は既に失効した最も軽い刑を規定してあった中間法の復活適用(すなわち恩恵的のものであって、行為時法主義でも判決時法主義でもない。)を認めたに過ぎないものである。従って、同条は、ドイツ刑法二条a第二項後段のように、判決言渡の時に行為が最早科刑されなくなったとき(行為当時の刑罰法規が判決言渡の時に廃止され又は消滅して)、裁判所の裁量によって刑罰法規を適用しないで無罪たらしめ得るという趣意の実体刑法規定でないのは勿論、刑訴三三七条二号にいわゆる「犯罪後の法令により刑が廃止されたとき。」とある訴訟法規定をも包含した規定でもない。しかるに、刑の廃止は、刑法六条にいわゆる刑の変更の最も軽い極限に当るから、同条の「刑ノ変更」の中には狭義の刑の変更と刑の廃止(訴訟四一一条五号)を含むものと解する説がある。しかし、刑法六条は、その明文の示すとおり、刑の変更の場合に限り軽い法律を適用するという法律適用に関する規定であって、実体刑法を適用しないで無罪又は免訴をする場合の規定ではない。そもそも、現行刑訴にいわゆる「刑の廃止」とは、旧旧刑訴一六五条六号にいわゆる「罪の全免」と同義であって、刑を規定した法令そのものの廃止を指すものではなく(この廃止が同時に暗黙に既成の刑罰権を放棄したと推定される場合のあることは別として)、既に発生、成立した科刑権の廃止を意味し、犯罪の成立を認めて刑罰だけを廃止する場合と刑罰ばかりでなく行為の犯罪性(可罰性)をも全免する場合とを含むといわれている。されば、わが刑訴法においては、刑の廃止と刑の変更とを明確に区別して規定し、両者とも控訴理由若しくは上告審における職権破棄事由となるけれども、刑の変更の場合は免訴の事由にはならないのである。(刑訴三八三条二号、四一一条五号、三三七条二号参照)従って、刑法六条の刑の変更が刑訴三三七条二号又は刑訴四一一条五号中の刑の廃止を含まないことは、明文上一点の疑もないのである。それ故、論者の説は、明白な類推でなければ極めて顕著な歪曲である。しかのみならず、刑訴三三七条二号は、読んで字のごとく、「犯罪後の法令により刑が廃止されたとき。」と規定している。従って、「刑の廃止」とは、既成の科刑権の廃止であり既成の「罪の全免」であるが、仮りに刑を規定した刑罰法規そのものを将来に向って廃止する場合をも含むものと仮定しても、それが「犯罪後の法令(刑法六条とは異り法律だけではない。)により」なされなければならないのである。換言すれば、特に廃止する旨の明白な国家意思の表明を必要とするのである。本件でいえば、犯罪後の法令により少くとも昭和二二年勅令五四二号又は昭和二五年政令三二五号はこれを廃止するとの明文を必要とするのである。(昭和二七年法律八一号同一三七号一連の法律は廃止する旨の明文を置くと同時に、前者はこれに基く既成の命令の効力を存置し、後者は罰則の適用については従前の例によらしめており、また、本件指令違反の罪については大赦を行っていないことは顕著な事実である。)しかるに、廃止する旨の明文もないのに、単に独自の見解で平和条約の発効により当然失効するとか又は平和条約発効後憲法違反の規定となるというだけでは、(この両説は、いずれも、わが刑事法では行為時法主義ではなく、判決時法主義を採るとの見解に立つものであるこというまでもない。)犯罪後の法令により刑が廃止されたとはいえないのである。だが、いましばらく、右のごとく特に犯罪後の法令により又は少くとも刑罰法規を廃止する旨の明文がないときでも、刑を規定した刑罰法規が将来に向って失効したと思われる場合に、刑法六条を類推適用して刑の廃止があったと見ることが妥当であるか否かを一応検討して見ることとする。刑法六条は、理論上当然の規定ではなく、論者もいうがごとく、従前の犯罪者に対する恩恵、寛容、仁愛、慈悲の精神によったものであることは、敢て争わない。(但し、論者の羅列列挙中公平とあるのは、根拠なき独断である。若し、公平の精神によるものならば、行為が実行の時に違法であった以上判決時に刑が重く変更されたときでも重きに従わねばならぬ筈である。単に恩恵的のものであるからこそドイツ刑法二条a第二項でも同条項を適用すると否とを裁判所の裁量に任かせているのであり、また、刑法六条を適用しない立法を設けるか否か等は自由な立法政策の問題でもあるのである。なぜなら、わが憲法は少しも軽き事後法の適用を強制してはいないからである。)しかし、元来、刑を規定した刑罰法規そのものの廃止又は失効の動機又は理由は、必ずしも、従前の犯罪者に対する恩恵的精神によるものではない。その動機又は理由は、或いは、立法者の側における法的観念、刑法的価値判断に変更を生じ、従前認められていた刑罰法上の可罰性を認むべきでないとするような場合もあり、或いは、単なる事情の変更乃至時間の経過に因るに過ぎないような場合もあるのである。前の場合にはその法規失効の理由に鑑み恩恵、寛容、仁愛、慈悲の精神を拡張して失効と同時に既成の刑罰を廃止したもの、すなわち、既に発生成立した科刑権をも同時に放棄したものと類推、推定しても妥当を欠くとはいえないが、後の場合にはかかる類推や推定を許す妥当性がないのである。従って、後の場合は、罪刑法定主義当然の約束によって、行為時法に従い可罰性を認め行為時法所定の刑罰を科するのが当り前なのである。されば、ドイツ刑法二条a第一項は、先ず行為の可罰性並びに刑罰は行為時法によるべき原則を規定し、その第二項前段に判決時法が行為時法より軽き場合は裁判所の裁量により軽き法を適用し得る旨並びにその後段に判決時に行為が最早科刑されなくなったときは裁判の裁量により処罰しないことができる旨それぞれ規定すると共に、その第三項にいわゆる純然たる限時法の場合は法規失効後も必ずこれを適用しなければならないとの裁量禁止規定を設けて、第一項の原則に復帰すべきことを規定したのである。だから、ドイツ刑法の限時法に関する規定は行為時法の原則に対する例外規定ではなく、これが原則への復帰を示したものに過ぎないものであって、何等例外の拡張ではないのである。これがわが国においても、限時法的性格の法令(単なる事情の変更乃至時間の経過に因り廃止し又は失効するに過ぎない法令)は、特に明確な例外的国家意思がない限り行為時法の原則に依るのが当然であると主張する所以である。従って、ドイツ刑法二条a第二項後段(前段の規定の外特に後段の規定を設けてあることに注意を要する)のごとき規定のないわが刑法六条の解釈として、ドイツ法と同様の結論(しかも、ドイツ刑法においては裁判所の任意裁量である点を無視して)をとる論者こそ、その根本において刑法六条などの立法趣意を全く誤解しているばかりでなく、原則と例外とを顛倒した見解といわなければならない。なお、「旧法(令)廃止前にした行為に対する罰則の適用については、なお、従前の例による」といった風の規定は、単に将来に向って廃止の効果を及ぼし、既成の効果を廃止しないという注意的な規定であって、刑罰法令の適用は判決時法によるとの原則を示したものではないのである。そしてかかる規定は、その前提として必ず先ず犯罪後の法令によって該刑罰法令そのものを廃止する旨の明文あることはいうまでもないのである。わたくしは、少くとも刑を規定した刑罰法令を廃止する旨の明文なくしては、既成の刑罰権放棄の国家意思を推定することはできないと主張するのであり、また、かかる明文なくして刑法六条や刑訴三三七条二号等を限時法的性格の法令にまで類推適用することは誤りであるというのである。
この点に関し、法令が合憲であることはすべてに先行するもので裁判時においてその法令が違憲であれば刑の廃止と見る外はないとの説がある。この説も結局科刑については行為時法を適用すべきではなく、裁判時法を適用すべきものとする見解に帰するであろう。わたくしは、第一に或る法令が合憲であるか否かは行為時において決すべく、裁判時において定むべきでないと考える。そして、本件では犯罪行為時において昭和二五年政令三二五号は憲法(正確にいえば憲法九八条第一項)にかかわりなく有効であって、占領中かかる有効性のあることはわが憲法もその九八条二項において是認しているのである。従って、本件政令は行為時において広義の合憲性をも有していたのである。第二に、刑の廃止ありと見るには犯罪後の法令により既成の刑罰権を放棄する国家意思の表現あることを要するものであり、少くとも刑を定めた刑罰法令を廃止する旨の新らたな国家意思の表明を要するものと考える。そして、その法令中には法律ばかりでなく、憲法(又は条約)も含むであろう。従って、厳密に云えば、犯罪後少なくとも刑罰法令を廃止する趣旨の新らたな憲法(又は条約)の制定乃至改正を要するであろう。そして、本件では犯罪後かかる憲法の制定乃至改正(又は条約の締結)のないことはいうまでもないのである。なるほど、平和条約の発効と同時に憲法は全面的に回復されるであろう。しかし、憲法九八条二項は占領中に有効に存在した過去の例外的な法律秩序を占領後も有効に残存することをも是認しているものと考えるのである。まして、昭和二七年法律八一号、同一三七号一連の法律は、本件の過去における法秩序が占領後も有効に残存することを是認していることが明白であることは先に述べたとおりである。そして、実行の時に違法であった行為は犯罪後の法令により大赦乃至刑の廃止がない限りこれに対し科刑することが法の秩序を重んずる憲法の精神であり、正に憲法三九条の前提であると思うのである。占領中の指令違反行為に対し平和条約発効後の裁判時において違憲審査を行うがごときは、いわゆる死児の齢を算えるの類であって、恐るべき法秩序の空白乃至破壊を来すであろう。われわれは、占領中におけるすべての立法、就中論者の金科玉条とする憲法の制定それ自身すら占領的拘束を受けたものであり、しかも、その拘束が占領終了後も依然有効に残存するものであることを忘れてはならないのである。わたくしは、わが国が半ば自主的地位を回復したからといって、濫りに大陸棚的主張を為す者を戒めざるを得ないのである。第三に、仮りに百歩を譲り平和条約発効後憲法二一条が回復してこれに反する既住の効果を放棄したと見ることが正しいと仮定しても、本件指令が憲法二一条に違反すると見ることについても異見を有する。同条の保障は、公共の福祉に反するときはこれが制限を受けることのあるのは当然であり、また、占領目的に有益な指令が同時にわが国の公共の福祉を維持するに必要なものも存するのであって、本件指令のごときはこれに属し憲法二一条に反するものとは思われないのである。この点に関し論者とその客観的事態に関する認識を異にするを遺憾とする。
要するに、多数説は、「犯罪後の法令」によらずに、却って、犯罪後の前記法律八一号又は一三七号の明文に反し、壇に刑の廃止を認めるものであって、法律の拘束を勝手に逸脱しそれ自身憲法七六条三項に反する違憲の裁判というべきである。その他免訴の裁判が合議の本質上失当であることも(特に、違憲の判断は、最高裁判所裁判事務処理規則一二条所定の定数を欠く無効のもので、裁判所法四条の拘束力を生じ得ないこと勿論である。)昭和二七年(あ)二八六八号事件の判決中のわたくしの意見に示したとおりである。
裁判官真野毅の補足意見は、昭和二七年(あ)第六六九号被告人渡辺誠一郎に対する昭和二五年政令三二五号違反被告事件の同二八年一二月一六日言渡大法廷判決中に記載の同裁判官の補足意見のとおりである。
裁判官井上登、同河村又介の各補足意見は、前記昭和二七年(あ)第二八六八号被告人坂上仲夫に対する同政令違反被告事件の同二八年七月二二日言渡大法廷判決記載の右両裁判官の各補足意見及び前記昭和二七年(あ)第六六九号(被告人渡辺誠一郎)の大法廷判決記載の右両裁判官の各補足意見中、本件政令三二五号の講和条約発効後の効力に関する部分のとおりである。
裁判官栗山茂の補足意見は、前記昭和二七年(あ)第六六九号(被告人渡辺誠一郎)の大法廷判決記載の同裁判官の意見中本件政令三二五号の講和条約発効後の効力に関する部分のとおりである。
裁判官小林俊三の補足意見は、前記昭和二七年(あ)第二八六八号(被告人坂上仲夫)の大法廷判決記載の同裁判官の補足意見のとおりである。
(裁判長裁判官 田中耕太郎 裁判官 霜山精一 裁判官 井上 登 裁判官 栗山 茂 裁判官 真野 毅 裁判官 小谷勝重 裁判官 島 保 裁判官 斎藤悠輔 裁判官 藤田八郎 裁判官 河村又介 裁判官 谷村唯一郎 裁判官 小林俊三 裁判官 本村善太郎 裁判官 入江俊郎)